出雲大社西郷分院(隠岐の島町中町)寒田神社(松田町松田惣領)

2018年02月22日

川勾神社(二宮町山西)

川勾神社。

二宮駅の西北西約1.8km、山西に鎮座。

式内社 川勾神社に比定される神社で、相模国二宮とされる神社。



アクセス

二宮駅から徒歩30分ほど。

一応二宮駅から神奈中バスが出ていますが、最寄駅(押切坂上)から徒歩15分近くかかり、一時間に2本程度の運行なので微妙なところです。

二宮町コミュニティバスもあり、バス停は神社から徒歩5分ほど(川勾神社入口)ですが、平日のみの運行。本数も少ないです。

車なら神社下に駐車場があります。

駐車場位置。

境内

看板と社号標

鳥居

鳥居手前にある伊藤博文揮毫の扁額

伊達時は、嘉永2年(1849年)、父・豫と母・てるの長男として二宮村塩海で生まれた。

伊達氏は遠く藤原氏の出身で、敬神崇仏の念厚く、川勾神社の山門から本殿に至る敷石を敷くなど修繕に力を尽くした。

伊藤博文筆「川勾神社」の書を献納、明治30年に伊藤博文を訪ね、「川勾神社」の文字を揮毫「毛筆で言葉や文章を書くこと)していただく。

伊藤博文は、明治29年に大磯に別荘を建て、翌30年には本籍を大磯に移して住んでおり、揮毫してもらう前から交流があった。

医師、教育者、政治家としての実績とともに、郷土の発展、二宮駅開設、秦野往還(県道)の整備にも尽力し、明治39年湘南馬車鉄道を設立。

【扁額裏書 伊達時扁額奉納の由来】

先考綾浦府君敬神之志最篤易簀之際諄諄遺言郷社扁額之事爾来二十有餘霜今玆明治三十年十月前総理大臣大勲位侯爵伊藤公在大磯別墅時上謁而乞焉公補袞之手直書川勾神社四大字以賜乃先考平昔之志遂而兒時承順之責亦塞為賜大矣因謹記其歳月於額背云三十一年一月八日

孝子伊達時薫沐拝誌 西川元讓 印

川勾神社に扁額を奉納することで、伊達時は、父の望みを叶えられたものであり、安堵した気持ちがこの扁額裏書から伝わってくる。

伊藤博文が亡くなった後、追悼和歌集の作成に携わるなど、伊達時は、伊藤博文を深く敬愛していたことが伺える。

神門

随身像(反射でよく見えませんが…)

川勾神社随身像について

当神社は相模國二之宮であり、古くから二宮大明神とも称し、『延喜式』所載の相模十三座のひとつであります。創建は、第11代垂仁天皇の朝、当時余綾郡・足柄郡両郡の東西海浜周辺を磯長国と称してゐた頃国造阿屋葉造によって創建されました。

一般に随身門とは、神社に兵仗を帯した随身の像を安置してある門であります。随身とは貴人の身に随ふ事で供人の門といふ意味で、その中に安置してある随身は袍を着、巻纓の冠をつけ、剣を帯び弓箭を負ひてゐる為、矢大臣とも又門の神である豊磐間戸神・櫛磐間戸神を表したものであるとも云はれてをります。

当神社の随身像は豊磐間戸神・櫛磐間戸神をお祀りし、茅葺きの古き門の左右に安置されてゐる一対の倚像形の随身(守門神)であります。

当神社の記録によると、応永年間、兵火に罹り社殿宝物当悉く焼失の折、神像共々災を免れたとあります。二躯ともに歳月を経、風雪に耐へ、その造型は著しく摩滅し、また虫損も進み、像容の細部を明らかにしない程に変化してゐます。しかしながら、巾子冠を被り袍を着け、沓をはいて倚座する威風堂々たる全体形はよく保たれてゐます。頬骨の張った厳つい面貌や、ゆったりとした袍の袖に刻まれた衣文、先のとがった沓など、しっかりとした造形がみてとれます。構造は巾子冠から脚部まで全てを含む全くの一木造で、複数の節をともなった広葉樹を用ゐて作製されてゐます。

専門の学者によれば、太く厳つい造形は、地方の作ではありますが、平安期の制作を頷かせるものであり、それは随身の古像として知られてゐます岡山・高野神社の立像(応保2年=1262)などとも一脈通ずる雰囲気をもってゐるさうです。

制作時期は12世紀と考察されてをります。中世期に入ると随身は半蹴像が多くなり、本像の倚像である点はまた古式を示すものと考へられるさうです。

傷みの著しい点がおしまれますが、県下における現存最古の随身像として、非常に重要な存在であります。

手水舎

天気の良い日は手水舎の脇から富士山が見えるようです

文久元年(1861)建立の鳥居

バラされています

古い扁額

狛犬

参道

社殿

拝殿

扁額

本殿

社殿裏の空間と、その前に置かれた八足

境内社等

東五社

西五社

神楽殿

神輿殿

古文書・田舟

二宮町指定重要文化財 昭和49年6月5日指定

一.古文書

小田原北条氏の臣山角刑部左衛門の書状

北条氏鬼門除守護神として信仰あつく元亀3年(西暦1572年)正月三嶋麻役銭など寄進のもの徳川家康公の50石の寄進状の写し

天正19年(西暦1591年)

徳川家康公の書状

文禄の役家康九州名護屋在陣のときの礼状など11点

これら多くの古文書により当川勾神社が古くから幕府および有力な武家の深き信仰を受けていたことがわかる。

二.田舟

長141.0cm 厚さ4.8cm 巾31.0cm

全容の左半形のみで、原木をくりぬいて作られ、わが国古代奈良朝の頃まで田植えの苗運びに使用されたものと推定される。

大正4年5月当神社裏旧神領地より発掘されたものである。

駐車場そばの忠魂碑

川匂の湯場

駐車場前から西へ行くと川匂の湯場があります。

このへん。

昔は湯治場でもあったようですが、関東大震災で水脈が変わってしまったとのこと。

今も僅かに湧いているそうです。

川匂の湯場

ここは、古くから「川匂の湯場」として広く知られ、神経痛や皮膚病に効能があるとして、湯治に訪れる人が多く、明治37・8年頃の最盛期には東京・横浜方面からくる人で賑わったという。

当時は、3階建ての湯宿があり、ここから湧出した鉱泉を沸かして用いていた。

大正12年の関東大震災で打撃を受け、建物は倒壊、地下水脈が変わってしまった。

なお、僅かではあるが現在でも湧出している。

旧鎮座地

『相模の古社』によれば、当社の記録にはないそうですが、故老の話などによると、中世以前には現社地の北方500mほどの宮上というところに社地があったと見られるそうです。

同書では、旧社地(と思われる場所)を「いまの新幹線の路線に近いところ」「東方の背後が丘陵で、その前がひらけて水田となっている」と述べています。ただし現在新幹線の路線の周囲はほとんど畑になっています。

また、前述の通り「現社地の北方500m」と同書にはありますが、上記記述に該当する場所は北北西といった方が妥当です。

その付近からは現在神宝となっている田舟が大正4年に発掘されています。

田舟の発掘地点は当時の地番までわかっているので、社務所で確認したのですが、現在のどの場所なのかが特定できず、おおよそ小田原市東ヶ丘(現在の地名)の北の方というところまでしか絞り込めませんでした。大正時代の地図があれば、特定できるかと思います。

新幹線の高架下

周囲は畑です

見た限りでは、特に神社があった痕跡などは残っていませんでした。

由緒

川勾神社

御祭神

大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です

大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です

級津彦命

     相模国が昔相武と磯長に分れていた頃磯長の国を御開拓なされた神様です

級津姫命

衣通姫命 安産守護の神様です

御由緒

当社は相模国二宮で古くから二宮大明神と称し延喜式所載の名社である。11代垂仁天皇の朝当国を磯長国と称せし頃その国造阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇招せり日本武尊東征の時、源義家東下りの時奉幣祈願ありしを始め、武将の崇敬深し。人皇19代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。一條天皇の御宇永延元年栗田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日に及ぶ建久3年源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる建長4年宗尊親王鎌倉に下向ありし時将軍事始の儀として奉幣神馬を納めらる。

北条相模守小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。

徳川の朝に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷礼を献上殊の外喜ばれ御朱印地50石を寄せらる爾来徳川累代将軍に及ぶ正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓礼を献ずるのが例となり幕末まで続行せり。

明治6年郷社に列せられ昭和7年県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。

御祭儀

例大祭 10月10日 特殊祭 月次祭 1日 15日

祈年祭 2月17日 筒粥祭 1月15日

新嘗祭 11月23日 国府祭 5月5日 大祓祭 6月30日 12月29日

川勾神社御筒粥祭について

当社の御祭儀の古式祭として、御筒粥祭(つつがゆさい)があります。

『新編相模国風土記稿』(天保12年・1841年成立)にはその神事が当社の祭儀として所載されております。

この神事は毎年1月15日早朝古式に倣い粥占いが行われ、その年の穀物の豊凶を占います。

筒粥に使う蘆(よし)と粥に使うお米(1升)は、小田原市山西の志澤家から1月11日代々奉納されます。

神事は神職身を清め、御神前にて大火鉢で粥占鍋(鉄鍋)に、長さ12・3センチに切った粥占蘆、12本とお米と共に約1時間炊き上げ、祈祷の後この蘆を皿に取り、蘆を真っ2つに割ると蘆筒の中に満ちている粥の状況により、此の年の12種の穀物の豊凶を占うものであります。

12種とは、大ムギ、小ムギ、米のワセ・ナカテ・オクテ・マメ・アズキ・アワ・ナンキン豆・イモ・タバコ・カイコです。

筒粥占いの結果は、版木で印刷し、その年の作付けの参考資料に供せられます。

そして、春祭(祈年祭)に五穀豊穣を祈願し、秋祭(新嘗祭)に報賽の新穀が神前に献納され新穀感謝の大祭が厳修されています。

寛永19年(1642)の縁起書によれば、垂仁天皇の時代に、磯長(師長)国造阿屋葉連による創建。

(磯長国は相模国の県西部。後に相武、鎌倉別と合併して相模国に)

『式内社調査報告』では、和名抄に見える磯長郷を現在の本梅沢・越地・茶屋・釜野・川勾のあたりだとしており、当社が師長国造に由緒ある神社だとみています。

(ただし、『日本の神々 神社と聖地』によれば当社周辺には古墳の存在した形跡がまったく見られない、とのこと)

『新編相模国風土記稿』によれば、古押切川がこの辺りで曲流していたことから川勾の地名が起ったとされ(勾る=まがる)、社名もこの地名に由来するとされます。

磯長国造大鷲臣命や相模国造穂積忍山宿禰(弟橘姫の父)が神宝を奉納したとされます。

また日本武尊が東征の際に参拝したとか、衣通姫命が皇子誕生の祈願をしたとも。

前九年・後三年の役の際に源義家の奉幣祈願があり、建久3年(1192)には源頼朝が政子の安産祈願のため神馬を奉納しています。

建長4年(1252)宗尊親王鎌倉下向の際、将軍事始の儀として奉幣神馬を奉納。

応永年間(1394-1427)、兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失。

随神の木造のみが残ったといいます(現存)。

応永30年(1423)頃に再建。

永禄4年(1561)、上杉輝虎(謙信)の小田原攻めの際にまたも焼失。

元亀年間(1570-73)に北条氏が再建。

特に当社は小田原城から見て丑寅の方角に当るため、鬼門守護社として崇敬が厚かったといいます。

天正19年(1591)11月、徳川家康が御朱印地五十石を寄進。

その後、歴代宮司は「二見神太郎」を名乗り、正月には江戸城に登場し御祓札を献上するのが例となりました。

明治6年郷社列格。

昭和7年県社列格の内示を受けるものの、実際に昇格までには至らなかったようです。

なお現在の社殿は昇格の内示を受けて新築造営工事に着手したもので、戦争等の変遷を経て昭和26年に完成。

また当社は、相模国府祭に参加する神社の一社となっています。

国府祭の神事の一つ、座問答は、相武国最大の寒川神社と磯長国最大の川勾神社のどちらが相模国一宮になるかの論争を儀式化したものと言われます。

事実であれば、諸国一宮は11世紀末から12世紀初頭頃の成立と考えられているため、相模(相武と磯長)にはそれに先駆けて一宮制が存在したことになります。

他に、禅問答とする説や、座問答が終わると稲田姫を祀る六所神社へ七度半の迎えを立てることから婿になる神の先陣争いの表現とする説、大住国府から余綾国府に移り総社を創建する際に最も近い川勾神社が一宮への昇格を狙ったとする説があります。

祭神

現在の祭神は大名貴命、大物忌命、級津彦命、級津姫命、衣通姫命。

祭神に関する最古の記録は安永5年(1775)に33代宮司二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』で、そこには以下の様にあり、江戸中期には八幡神を祭神としたことがわかります。

   左宮 足仲彦尊 誉田別尊 相殿

三社 中宮 姫大神

   右宮 大鷦鷯尊 武内大臣 相殿

これは鎌倉幕府や関東管領などが信奉した鶴岡八幡宮の影響だと、『日本の神々 神社と聖地』では述べられています。

天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』、天保10年(1839)の『相中留恩記略』では衣通姫命、大物忌命、級津彦命の三神。

それまでの神は末社に移されています。

これは、古書に通じた宮司二見氏が縁起・古典から当社にふさわしい神を奉祀したためとのこと。

なお、級津彦命は師長の「しな」の音が通ずることから、のようです。

級津姫命は明治以降に祀られたようです。

御朱印

御朱印はあります。

社務所で拝受可。


神社概要

社名川勾神社(かわわじんじゃ)
旧称
住所神奈川県中郡二宮町山西2122
祭神大名貴命
大物忌命
級津彦命
級津姫命
衣通姫命
社格等式内社 相模国餘綾郡 川勾神社
相模国二宮
磯長国一宮(?)
旧郷社
御朱印あり
駐車場あり
公式Webサイト相模國二之宮 川勾神社(延喜式式内社 相模国二之宮 川勾神社)


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
momijiaoi_ at 20:00│Comments(0)神奈川の神社 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
出雲大社西郷分院(隠岐の島町中町)寒田神社(松田町松田惣領)